津波と海岸林

2005年3月26日
小林 富士雄

 昨年12月のスマトラ沖地震によるインド洋津波はその規模においても被害においても歴史に残る自然災害でした。津波は我が国でも古くから経験しています。それにも拘わらず被害は繰り返し起きています。
 長い海岸線に囲まれた日本列島は津波から逃れることは出来ません。その対策の一つとして防潮林が効果あることを先人達は経験で知り、海岸林を造り保護してきました。海岸林造成は現代の技術をもっても難しい事業です。海岸林の大部分は、日本が統一され平時になった江戸時代から造成されたものですが、当時の人々の労苦は想像を絶します。
 秋田県能代海岸の「風の松原」の創設者とも言うべき栗田定之丞(くりたさだのじょう)(写真は秋田県HPから)の例をあげます。定之丞は寛政8年(1796)、幕府の命による海岸防備にそなえる秋田藩の外国船見張りの番人になった下級役人です。毎日海岸にいて、彼は耕作地を侵す飛砂の恐ろしさに気づき何とかならないかと考え始めました。そして飛砂防止のため農民に木を植える依頼を始めたが、彼等からは無駄な努力と相手にされませんでした。
 事実、定之丞が植えた木はいつの間にか飛砂に埋もれ無駄に終わりました。彼は砂の動きを知るため、ムシロを被って砂丘で寝ることも多かったといいます。様々な試みのすえ松が育つ確実な方法を見いだしました。いくつか成功例が出来ると農民達は次第に協力を申し出るようになり、これが実って江戸末期には大きな松林が出来たのです。司馬遼太郎はこれを「これらの松原こそ、秋田藩の長城というべきものだった」と書いています。
 このように全国各地で有名無名の人々が海岸林の造成と保護に心血を注いできたのに拘わらず、「忘却」という人間の性とはいいながら、大切な海岸林を平時には粗略にしがちです。別添写真は三陸海岸を襲った津波の被害です。1933年の三陸沖地震による昭和三陸津波の写真は「青森林友」から、1960年のチリ津波の写真は林業試験場研究報告からの引用です。三陸津波の調査報告にはつぎのような記述があります。
 ・・・松原中に浩養館なる旅館あり、眺望の関係より全面海岸の森林を伐採除去して此の方面には何等の障害物なかりしため全く消失し、死者三名を出したるに、此の処より僅か百米を距りたる林中に県営松濱莊及び付属建造物あり、高さ十尺の津浪襲来したるも、前面一様に森林を以て防護せらりしため一部半壊を生じたるのみにして極めて僅少の損害に止り・・・
 またチリ津波の報告にも、海岸林がないか途切れている箇所にくらべ、海岸林の内側が被害少なかったことが幾例か示されています。
 三陸海岸でも立派な海岸林があります。陸前高田市の「高田の松原」(写真は岩手県HPから)で、これも菅野杢之助など多くの先人達の努力の賜物です。これらの先人を尊敬し今も祀っている海岸林は守られています。

2005年3月 小林 富士雄

能代海岸林
三陸津浪
チリ津浪
高田の松原